やっと…。やっと観れました。
デビット・フィンチャーの名作中の名作と言われる『ファイト・クラブ』。
過去に観た事はあったのですが、もうずいぶん前に観たのでほとんど内容は覚えておらず…。
初見に近いコンディションで鑑賞しました。一応、作品の紹介から。
最近の作品では『ゴーン・ガール』や『ソーシャルネットワーク』などを撮っている鬼才(と言われる)デヴィット・フィンチャー監督作品で1999年に公開された『ファイト・クラブ』!
以下は超ざっくりとまとめた私的なあらすじ。
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アメリカでは華形である自動車業界で働き、いいマンションに住みおしゃれな家具を揃えて物質的には満たされているはずの主人公(エドワード・ノートン)。
しかし見かたを変えれば、毎日同じ時間に起き、同じ道を歩き、同じ場所で働き、同じような時間に帰る単調で退屈な人生とも言えた。
そんな中、主人公は虚構に満ちている世の中に喧嘩を売る様な男、タイラー・ダーデン(ブラットピット)と出会う。タイラーは野性的でありながら博識で頭もキレる、主人公とは正反対のタイプの男だった。
主人公とタイラーは意気投合し、バーの地下に『ファイト・クラブ』という男たちが夜な夜な集まりただただ殴り合う場所を作り上げた。
そこでは、職業・年収・年齢・人種とにかくそういう人々を区分するラベルが存在しない。
拳で殴り合い痛みを感じ血だらけになる、そんなやりとりが全ての世界であった。
主人公やタイラー、そして日に日に増えていくファイト・クラブメンバーは日々傷だらけになるが、同時に生きている実感を得るようになる。
だが、野性的なタイラーを筆頭に、だんだんと地下で殴りあっているだけでは事足りなくなった彼らは、地上に出始める。そして、これまでは自分たちの心の中にある虚構に満ちた価値観を殴り合うことでぶっ壊してきたが、今度はビルを爆破するという、きわめて物理的、現実的に世の中を壊す計画を立てていき、実行に移していく。
一方でそんなノリに主人公はついていけなくなる。主人公は必死でタイラー達の計画を阻止しようとするが…。
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とまあ、こんな感じの話なのですが、ここからは感想です!
この映画を観てまず思ったのは、ブランドというものの存在について。
映画の中にも、高級家具を爆破したりするシーンが出てくるし、セリフにも「お前らはブランドものを買って企業に踊らされているんだ」といった様なセリフがでてきます。
そこで思ったのが、ブランドってなんだろう、っていうことです。
最近、ファッション雑誌を開くと、平気で10万、20万、もっといくと30万のジャケットやらズボンやらが載っていますよね。
「今シーズは大人マリンが熱い!」みたいなタイトルとともにモデルが着こなす八分丈の麻の生地で出来たジャケットが21万円と普通に書いてあったりして。
実際、それなりにいい生地を使っているし、縫製も丁寧。確かに1着500円のバッタものを扱う店で売られているジャケットに比べれば、質は遥かに高いしデザインもいい。
でも、じゃあバッタ屋とは言わないまでもユニクロで数千円で売っているものとそんなに違うかといったら、実はそうでもない。何十倍も開きがある金額程は、品質に差はないのだ。
では、我々はなぜブランドのジャケットを買うのか?
それは、ブランド物は自分を気持ちよくさせてくれるから、ではないかと。
服そのものの品質なんかよりも、「金額が高い」という事実によってまわりから評価され、おれは金持ってるぞ!どーだ!!高いもの持ってるぞ!どーだ!!という自慢したい欲求を、ブランド物は間接的に満たしてくれる。
だから我々はブランド物を買うのではないでしょうか。
でも、そもそもその「金額が高いもの=すげえ!」っていう価値観ってどうなんでしょうか?
品質は量販店で売っているものよりちょっといい程度なのに、何十倍の金額のものを有難がるってのは、
まさに企業に踊らされていると言えるんじゃないのでしょうか??
確かに、空虚で退屈ですよ。世の中は。
生きていても、心が満たされる瞬間ってなかなか無いですよ。
でも、だからといって、ブランドを持つことによって自らの心を満たした気になってていいのか?
というかそれは本当に満たされていると言えるのか?どっかの企業が作り上げた、売上向上のための価値観にただ踊らされているだけじゃないのか?
そんなことを考えました。
例えばサラリーマンの場合、上司にアピールするために仕事ができる風な雰囲気を出して仕事出来ないって思われないようにしたり、一緒に飲みにいく気もないのに今度飲みましょうとか言ったり、逆に行きたくもない飲み会に付き合ったり、可愛いと思ってもいないのに会社の人の子供の写真を見て可愛いと褒めたり…。
そういう、うまくやっていくための嘘ってつきますよね。
世の中はそういう嘘に満ちているからこそ、生きているとたまにうんざりするし、空しくもなるわけで。
だから、なんの社会的肩書き(ラベル)も意味をなさないファイト・クラブで彼らが殴り合うシーンは爽快さがあるんです!(後半で主人公が金髪のメンバーを殴り続けるシーンは除く)
血が出るほどの衝撃!殴り殴られるときの骨の感触!を感じることで、虚構な世界での価値観やそこで生きている自分を壊していく。
先述した通り、サラリーマンでもニートでも学生でもフリーターでも、生きていると虚しく思えたりうんざりすることがたくさんあります。
自分にとってのファイト・クラブ的な場所を持つことは、生きていく上では重要なことだよな…。
なんて思いました。(この映画みたいに最終的に爆破テロという犯罪行為に走るようになってはダメだけど)
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